アニメCOPPELIONと日本の今

注意

・アニメCOPPELIONのネタバレを含みます。重大なネタバレ部分はあらかじめお示ししますので、もし、本作品を見る予定がある場合は当該部分をとばしてお読みください。

・アニメを見ての雑感を書いたものであり、原作等の情報を精査していません。あくまで感想文として読んでいただけると幸いです

・本文にて新型コロナウイルスについて言及しますが、内容は報道等で私が知ったことですので、間違いがあるかもしれません。なるべく正確な情報のみに言及するつもりですが、間違いがあれば指摘してください。

 

 

では、はじめます。


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昨日と今日でアニメCOPPELIONを鑑賞した。昨年から時間があればみたいと思っていた作品だったのだが、この自粛期間を用いて見ることとした。

あらすじは以下の通りである。(重大なネタバレは含んでいません)

「物質による汚染」のために廃墟と化した「旧首都」(原作のマンガでは、「原子力発電所メルトダウン事故による放射能汚染」のためゴーストタウンと化した「東京」(wikipediaより)らしい)にとりのこされた民間人を救出するために遺伝子操作によりその汚染に耐性をもったコッペリオンとよばれる特殊部隊が派遣されることとなった。そのコッペリオン部隊の成瀬荊野村タエ子深作葵の三人が中心となり、物語が進む。

 

ここまでの話を聞くと、2011年の福島原発事故が思い出されるが、この作品、原作は東日本大震災以前に連載が開始しており、アニメ化まで決定していたのだ。しかし、原発事故によりアニメ放映は2013年まで延期されたという事情がある。(その際上記に示したような原作とアニメ版の表現の差が生じた。)

 

このような事情を勘案すれば、福島原発事故と本作品を比較するのが筋かもしれないが、私たちは今身近に大都市が機能停止する危機に瀕している。そう、新型コロナウイルスの影響である。屋外には誰も人間がおらず、経済が止まった旧首都をアニメで見て、現在の東京がどうしても頭に浮かんでしまう。そこで本稿ではアニメCOPPELIONの世界と現在の新型コロナウイルスによって一変した日本を重ねて、ポストコロナの日本を見つめていきたい。

 

以下重大なネタバレを含みます

 

 

アニメの終盤で、汚染物質を含む死の風から民間人を救助しようとした成瀬らは人間を恨むコッペリオンの別の部隊との戦闘に辛くも勝利する。そして、助けた民間人のなかにいた妊婦の出産を野村が成功させ、新たな命の誕生に立ち会い、三人に加え和解したコッペリオンの別の部隊が再び救出に向かうシーンでこのアニメは幕を閉じる。

 

ここで注目したいのは生まれてきた双子の子どもである。詳しいストーリーは省略するが、この出産がなくても前述した死の風は汚染物質を運んでくるので、緊迫感を演出することはできたはずだ。出産を成功させた野村の成長を描くというほかにも、この子どもが生まれるというイベントには何か別の意味があるように思える。それは次世代への希望だ。

 

これはアニメ後半で明かされるが、コッペリオンは遺伝子操作の結果、いつか突然死する運命なのだそうだ。(作中では実験用のマウスがコロッと死ぬようにと表現されている)また、妊婦の父親は元電力会社の職員であり、事故を止められなかったことを深く悔いて旧首都に残留していた。残りの民間人も出産成功のために、という一心で旧首都脱出を遂行した。この全員が抱いているのが、次世代への希望なのではないかと思う。

 

たとえ、自分がコッペリオン(動く人形という意味を持つ語を元にした造語である)として死ぬ運命にあったとしても、自分の身が汚染に晒されようとも守り通したのが子ども=未来への希望なのである。

 

私はこのとき今日もどこかの病院で生まれている新しい命に思いを馳せた。

 

作中で「この子たちには防具服のない人生を送ってほしい」というセリフがあった。これはまさに現在の日本に当てはまるのではないだろうか。私も、たった今どこかで産声をあげた子どもたちに防護服やマスクが必要ない生活を送ってほしい。

 

自粛生活はつまらないし、将来の不安も募る。しかし、安心したポストコロナの世界をつくり、次世代への希望をつなぐためにはここが踏ん張り時ではないだろうか。

 

私は「世代間倫理」という言葉にピンときてなかった。自分が死ぬまでに世界が滅びなければそれでいいと考えていた。エゴから脱出してどこの馬の骨ともしれない人々にまで思いを巡らせるほど紳士ではいられないと思っていた。しかし、作中で死闘の末生まれた子どもをみて、きっと現実でもたくさんの人の思いが込められた出産が今日もどこかで行われていることを理解した。きっと世代間倫理とは自分の大切な人に生き続けてほしいというエゴなのだ。

 

待ち続けることは大変につらい作業だが、作中にはこんな言葉もあった。

 

 

 

 

    「気持ち一つで世界は変わる」

 

コッペリオン部隊との戦闘を経て、ひとまわり成長した深作葵のセリフだ。この自粛という待機は、牢屋のなかで釈放を待つような待ちではなく、植えた朝顔の芽吹きを待つような、希望に満ちた待ちなのではないだろうか。そう思えたときこの自粛生活に少しの勇気が湧いた。

 

幸いにも今の日本はCOPPELIONの世界よりはまだマシなものだ。二度ともとの生活を取り戻せない訳ではない。いま日本全国がウイルスによる「汚染」状態であったとしても半減期放射能のそれとは比較にならないほど短い。

 

不安は募る一方だが、ここは未来のそして未来世代、ポストコロナの日本の「芽生え」を期待してこのブログを自宅から綴っている。