家虎学概論

真面目な記事いきます。

昨今オタク業界をざわつかせる家虎規制問題について私見を述べさせて頂きたいと思います。

結論からいえば「公式による家虎規制」に反対します。理由は基準が曖昧な規制に納得がいかないからです。

まずはこの記事をご覧下さい

【衝撃事件の核心】「ホーーーー、ホワホワ!」〝オタ芸〟のかけ声で曲が聞こえない…アイドルコンサートやり直し求め憤怒の法廷闘争 - 産経ニュース

今回の一件を受けて、類似の裁判例としてオタ芸に関する裁判を挙げています。
チケットを購入するという契約から発生した曲を聴く権利の保証のため主催者は迷惑行為者を退場させる義務があるかを争った裁判ですが、
このなかで注目したいのは被告つまり主催者側の言い分です。

以下に抜粋しました。

どのような行為が「鑑賞の妨げ」になるか、客観的な基準を設けることは不可能であり「到底、法的な義務となり得るものではない」とした。

これは被告側がライブの応援行為の規制には広範な主催者側による裁量が認められるとした主張の理由部分です。奇しくも被告はこの主張で迷惑行為の客観的な基準を設けられないことを主張してしまいました。

つまり、広範な裁量によりレギュレーションを決めることは出来るが、それは主観的にならざるを得ないということです。それは「大人数が迷惑している」という「大人数」も「迷惑」も測れないところから明らかでしょう。

まとめれば線引きが不明瞭であるということであり、よくいわれる「そんなことをしたら全員が地蔵になる」というやつです。

しかし、この論には「極端すぎる」という反論が容易に予想できます。しかし、本当に極端な話でしょうか?見る人によっては大人数も迷惑も基準が変わってしまいます。ましてや、誰かひとりの観点をそこに持ち込んでしまってはその基準は均衡を失するものになるでしょう。
サビ前の休符が尊重され間奏がウリャオイで消されるところになんの違いがあるのでしょうか?家虎だけを規制するのはまさに本人の正義感という基準としては甚だ信用出来ない感覚に基づいています。

やはり1番良いのは公式が規制するのは他人の身体等を傷つける「明らかな不法行為」に限定して、その他は自制とオタクたちの論争に任せるしか無いものと思われます。
つまりアダム・スミスの神の見えざる手のようにオタクたちが自分の利益を主張した結果落ち着いた位置を均衡点だとするわけです。

政府の介入(つまり今回なら公式の介入)はなるべく避けるべきです。

以上が「公式による家虎規制」に対する私見です。

しかし、この主張をしたところで私が家虎に賛成していることにはなりません。先程も申した通り、オタクたちの議論に任せるべきだというわけです。わたしは別にどっちでもいいですが、やはり嫌がる人が多いので(ここで私の見解が金科玉条の基準となる訳では無いので私は主観的意見を主張します)やめるべきだと思います。



やや、結論で矛盾した感が否めませんが、以上が私の意見です。ライブ時の観客の態度に関しては私も大学で本を読んで自分の意見をまとめるくらいには興味があるし、難しいと感じるテーマなのでなにか意見感想等あればコメントして欲しいです。

お読みくださりありがとうございました!